「家族を人質にとる」ということ

交渉の範疇であり、労組委員長が責任を負うべきなのは組合員に対してなので、その結果、ベターな成果が得られるならば、「そうしなければならない」ものである。

そして団体交渉権は労働三権のひとつであって、法が定めた労働者の権利である。

労働交渉を鬼畜と呼ぶならばお好きにどうぞ、であるが、そうした個人的な印象論を語っても仕方が無いだろう。池田信夫氏が、沈まぬ太陽に描かれたことが100%フィクションであると言い切るのであれば、何が事実であるかの同定が重要なのであって、印象論はどうでもいいからだ。

まあ、元記事のブログ主の主な関心は別なところにあるんだろうが。
とりあえず言っておくと別に労働交渉そのものを否定するつもりはないよ。手段の話だし。
なぜそんな思考パターンになるかさっぱりわからん。


結局は価値観の問題なんで、そのこと自体を理解してもらうつもりは無い。ただ、外交交渉*1ならともかく労使交渉で「何でもあり」で話をするというのは、現実的な損得を考えたところで、どっちにとっても上策では無いさね。


交渉が終わったら、また一緒に仕事するんでしょ?


いくら交渉手段だと言ったところで、私ならこんなことを言ってるヤツとは二度と口も聞きたくないけどね。いくら合理的に考えるべきとは言っても、そういった労使間の感情的な対立は企業をダメにしていくんじゃないかな。


それに「仕事上の問題で相手のプライベートを踏みにじる」ことを肯定するのは、結局のところ「社畜」の発想でしょ?経営者が従業員に対して家族を顧みずに仕事を強要することを批判するならば、従業員もまた経営者に対してもそれは同じ発想で応対するべきだと思うがね。日本では同族企業でも無い限り、外から経営者が振ってくるよりも従業員が経営者になるケースが大半なんだし。割と最近「家族のために」日本の企業の社長を辞任した外国人がいたと思うが、欧米なら当然なんじゃないんかね。


形式的な交渉技術の論理をベースに「何でもあり」を肯定するんじゃなくて、もっと実務的な視点から考えた方がいいんじゃなかろうかね。実際、本田宗一郎にしろ山内博にしろ1950年代の労使交渉について酷かったという感想を持っていたわけで、実際同じような感想を持った人たちがいっぱいいたからこそ国内から労使紛争が無くなっていったんじゃないかと思うんだけど。最近はあまりにナアナアになりすぎてるかも知らんがね。

*1:外交交渉で担当者のプライベートを交渉材料に使うことは買収以外には思いつかんけども。相手に対する脅迫は担当者が代わったらそれまでだし。